「農民」記事データベース20000925-464-08

砂漠化の中国・黄土高原

第二回 黄土高原の歴史と砂漠化

橋本紘二〈写真・文〉


 黄土高原は昔から砂漠化した大地ではなかったようだ。

 黄土高原は古代から大きな国が生まれ、文明が発達したところでもある。紀元前七百年前の周の時代、黄土高原の東南部(現在の山西省の南部)には唐という国があり、春秋時代(BC722〜450)の晋は山西省を中心とした勢力であった。そして、黄土高原の南西部にあった秦が、始皇帝によって初めて全国統一(BC221)を果たす。

 また、黄河のほとり、西安(長安)には漢王朝(BC202〜196)が前漢、後漢時代合わせて四百年も続いた。そして、四世紀末には山西省の大同に北魏の都が置かれ、人口百万の大都市だったという。

 つまり、黄土高原に大きな国や都ができたということは、その兵力や大人口を食わせるだけの豊かな農業と自然があったということである。

 中国の古典「詩経」には、自然の豊かさや草木の美しさを歌った詩がたくさん収められている。

 山にはクヌギ、ニレ、シラカバなどの落葉広葉樹やマツ、モミ、カンバなどの針葉樹が茂り、平坦なところは草原がひろがっていたと想像され、二千百年前の秦時代には森林の被覆率は五〇%もあったと推定されている。

 それではなぜ、いつのころから黄土高原は砂漠化していったのだろうか。

 漢民族は農耕の技術をもった人々で、長い歴史の中で戦争を繰り返し、遊牧民を追い出しては草原を剥ぎ取り、開墾して畑にしていった。人口が増えると丘陵地の森林を伐採しては、さらに耕地を増やしていったのである。畑は、作物が土を覆うのは二カ月から長くとも四カ月しかない。雨量の少ない半乾燥地で草原を剥ぎ取れば、土は太陽の直射をまともに受け、砂漠化していく。

 森林破壊が急速に進んだ時期は、明の時代であったようだ。十五世紀前半に明の世祖・永楽帝は首都を北京に移し、当時、世界最大の都市をつくった。都市づくりには膨大な木材が必要とされた。皇帝の住む紫禁城には山西省の木材が運ばれ、使われたという。また、「匈奴」(きょうど)とさげすむ名称までつけて恐れたモンゴルの遊牧民たちの侵入を防ぐために、北京の周りに高い万里の長城を張り巡らせ、内モンゴルと接する山西省の北辺には外長城を築き軍隊を駐屯させた。

 この万里の長城のレンガを焼くために大量の木が切られ、兵隊たちの煮炊きに周囲の潅木まで刈り取られた。決定的な森林破壊が行われ、森林は一〇%以下となる。その後も森林破壊は続き、一九四九年の中華人民共和国成立時には国土の森林被覆率は二・四%になっていた。

 皮肉にも、農民の勤勉さが砂漠化をもたらしたとも言える。農民たちは、時代とともに人口が増えていくと、その大人口を食わせるために山の木を切り開墾してきた。自然がなくなると環境は悪化し、生産が落ちる。その落ちた生産を補うために、さらに山の上まで開墾し、畑にしていった。環境破壊と農民の貧しさの悪循環が、中国二千年の歴史のなかで繰り返されてきたのであった。

 砂漠化した現在の黄土高原は、人間の「文明」が自然を食い散らした果ての姿なのである。

(つづく)

(新聞「農民」2000.9.25付)
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2000年9月

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