「農民」記事データベース20010813-505-10

太平洋戦争開始60年

平和への強い願い(手記)


私の戦争体験と戦後の歩み

鳥取県 田村 保芳さん

 一九四五年三月十日の早朝、東京の上空に黒煙がのぼっていました。

 品川で汽車をおろされた私たち農業高校の動員者(農兵隊といった)は、線路上で力が尽きたおびただしい焼死体の無惨な地獄絵を見ました。防空壕に避難し、蒸し焼きにされた子どもたちを鳶口(とびぐち)で引っ張り出す男たち。この惨状は十万人の犠牲者が出た米軍機による東京大空襲だったことを後で知りました。

 私たちはスコップで焼け跡や爆弾跡を整地したり、千葉県の荒れ地を開墾するなど、米軍戦闘機におびえながらの労働でした。飢えのあまり生の大豆やユリの球根を食べて、腹をこわす者などが出て大変でした。

 そして、私にも「十七歳で入隊せよ」と召集令状(赤紙)がきました。父は当時少なかったお酒を工面してこさえました。しかし、入隊の二日前に日本は敗戦し、戦争が終わりました。侵略戦争に加わることなく、平和を迎えた私たちは民主化運動に、農民運動にと活動をひろげていきました。

 敗戦後、都市も農村も荒れており、食料が足りません。私は朝三時に起きて草鞋(わらじ)をはき、大八車を引いて山草を刈り、牛に踏ませて堆肥を作り、政府の厳しい米の出荷割り当てをこなすため、少しでも多く穫るため働きました。

 そのころはトラクターのない時代ですから、牛が水田を耕運していたのです。夜になると牛も百姓も疲れ果ててしまいました。その牛も老牛になり家から商人に引かれていくとき、大粒の涙を出していたことがいとおしくて今も忘れることができません。稲の苗取りと泥田の手植え、祖母は田に座ったままで稲束を結束したり、足踏み脱穀機の穫り入れなど、家族はきつい労働に精を出しました。

 あれから半世紀以上。多くの若い農民が軍服を着て死んでいった戦争を再び繰り返してはなりません。

 歴代の自民党政治の農業つぶし政策で農村は荒れ果て、食料の自給率が四〇%を割る状況です。政治を変え、農業に希望ある未来をひらくため、仲間と活動しています。人間の命のみなもとを作る日本の農業が大切にされ、発展するよう頑張っていきます。


基地があるかぎり、事件起る

沖縄県 金城 絹江さん

 またもや米兵による女性暴行事件が発生(六月二十九日)し、沖縄県民に強い衝撃と不安を与えている。

 人権を踏みにじる今回の事件に対し、女性たちの抗議集会も開かれ、「基地あるかぎり事件は起きる。軍隊をなくせばいいという簡単なことが、なぜ政府は分からないのか」と声をふるわせた。

 昨年の九州・沖縄サミットで米大統領は「沖縄の良き隣人でなければならない」と軍人、軍属を前に綱紀粛正を強く求めたにもかかわらず、事件、事故、不祥事が絶えない。「アメリカ軍は日本を守っている」というバカげた発言もあった。

 戦後五十六年間、沖縄の女性が犠牲になり続けている。子や孫に悲しい思いをさせないためには、基地の撤去と軍隊の撤退しかあり得ない。米軍人の飲酒および深夜俳個(はいかい)を目的とする夜間外出禁止も拒否された。今後は自己防衛しかない。

 政府は被害者と家族に対し、謝罪および完全補償を行うべきであると思う。

 子を産み育てる母親の立場から、このような事件が二度と起こらないように、米軍基地を撤去し、女性や子どもたちが安心して暮らせる美ゅら島沖縄を取り戻そうと思う。

(パイン栽培農家)

☆   ☆

 農民連は七月六日、北谷町で米兵による女性暴行事件に対し、アメリカのブッシュ大統領に厳重に抗議するとともに、(1)日米地位協定を抜本改定し、米軍優遇の特権措置をなくせ、(2)米兵犯罪の温床である米軍基地を撤去し、米軍は本国に帰れと要求しました。

(新聞「農民」2001.8.13付)
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2001年8月

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