「農民」記事データベース20020909-553-12

農の考古学(18)

稲作の歴史をたどる


米指向強まった古墳時代

 弥生時代が終わり、墳墓を造ることが盛んになる古墳時代(三世紀中葉〜七世紀後半)が始まります。なかでも大規模な前方後円墳の築造は、同じ形の墳墓を造ることで、畿内政権を中心に豪族の同盟関係を強めるものでした。この時代に、各地で水田開発がすすめられます。

 弥生時代の水田は、潅漑が容易な平野部につくられましたが、古墳時代には、山すそや台地の斜面も水田化されました。水利が悪い場所に水田をつくるため、人びとは、溜井(ためい=潅漑用の井戸)や用水路を掘削して水を確保しました。鉄製の農具や土木具の普及が、こうした開田事業を可能にしたのです。

 群馬県・赤城山の南側にある、五、六世紀の集落の洗橋、宮西、天之宮の各遺跡は、河川のない小さな谷間に面しています。周辺の開田化で新しくつくられた集落です。天之宮遺跡では、台地と谷間の境付近から、水をくみ上げた溜井群が見つかりました。溜井による潅漑で未開地の新田開発が行われたのでしょう。

 畠の水田化も行われました。榛名山麓の傾斜地にある有馬条里遺跡(渋川市)の一帯は畠作地帯でしたが、古墳時代中・後期に水田に転換されました。近くの午王川の流れを変えて潅漑用水とし、水を引く土木工事が行われたのです。

 水田開発の進行のなかで、古墳築造にも変化がでてきます。高崎市周辺をみると、四世紀代の大型古墳は、豪族が支配する地域を一望する丘陵上に立地しています。しかし五、六世紀になると古墳は、平野部につくられるようになります。

 水田耕作と水利施設の拠点ともいえる付近に古墳を造ることで、より具体的に地域の支配権を誇示したのではないか、と解釈されています。

 積極的な水田開発は、米が経済的に、さらに重要度を増してきたことを示しています。時代は古代国家形成へと動いていきます。

(つづく)

(新聞「農民」2002.9.2・9付)
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2002年9月

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