「農民」記事データベース20020916-554-10

二〇〇二農民連全国研究・交流集会講演(要旨)

『闘いの中での民衆の知恵と力、そして協同』――南部三閉伊一揆に学ぶ―上―

たざわこ芸術村・(財)民族芸術研究所所長 茶谷 十六(ちゃたに・じゅうろく)

関連/佐々木健三会長あいさつ(要旨)
   全国研究・交流集会への報告
   『闘いの中での民衆の知恵と力、そして協同』――南部三閉伊一揆に学ぶ―上―
   『闘いの中での民衆の知恵と力、そして協同』――南部三閉伊一揆に学ぶ―下―


 一揆とは心一つにすること

 みなさんは、一揆(いっき)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。一揆とはなんでしょう。よく「一揆主義」という言葉が使われています。計画もなしに立ち上がって、上から弾圧されると、総崩れになってしまう。計画がない、秩序がない、そして組織的でない。それが「一揆主義」という言葉でいわれます。

 しかし、これは大変な間違いです。一揆というのは、心を一つにするという意味です。現在の言葉にすれば「協同」するということです。そして、計画性、組織性、秩序こそが一揆の意味です。

 この「一揆」を文字通り、一〇〇%実現したのが、現在の岩手県の三陸地方で起こった南部三閉伊(さんへい)一揆です。

 南部三閉伊一揆とは

 一揆は二回起こります。まず弘化四年(一八四七年)の一揆は、一万二千人が参加し、一時的に要求は聞きとめられますが、一揆衆が村に帰るとすぐに約束は葬られた。指導者たちが捕らえられ、一揆は崩壊しました。それから、六年後に行われたのが嘉永六年(一八五三年)の大一揆でした。このときには一万六千人が参加しました。

 五月十九日に田野畑村、小さな村の小高い丘の上で一揆蜂起のほら貝が鳴り響きました。ほら貝の音が次々に次の村、次の村に響き、全領に届けられました。一揆軍の先頭にこんな面白い旗が立てられた。「小○」。困る。今の殿様の政治では困るという意味です。その一揆衆が使った旗は、大変な達筆で、しかも木綿の布地に茜(あかね)染めで文字のところが白く染めぬかれていたそうです。一揆衆はカマスを背負い、中にはそばもち、あわ、ひえなどの食料をいっぱい持って、腰にはお椀をさげていました。

 村ごとに目印の旗がありました。先頭には、大旗本と呼ばれる指導部があって、そこで村々の代表が集まって、討議をしながら作戦を考えた。指導部には、白襷(たすき)、赤襷をかけた若者たちの精鋭がつき従った。彼らは鉄砲を持ち、竹やりを持ち、刀を持ち、いつでもたたかう用意ができていた。鉄砲を持っていたのは、またぎと呼ばれる猟師たちです。またぎは武士たちよりはるかに射撃の技術が高かったのです。

 四十九カ条の要求を実現

 行動するときは、すべてほら貝で合図をする。当時、農民たちが使ったほら貝の楽譜が残っています。支度ぼら、寄せぼら、たちぼら、ひきぼらというように、出発のときや集合のときは、どういう音を出すか、危険なとき、撤退するときにはどういうほら貝を鳴らすか。一揆軍は、すべての行動をほら貝の合図によって行なっていた。彼らは整然と三陸の沿岸を行進して宮古、大槌、釜石と南下し、峠を越えて仙台領に越訴した。

 その三日前に、アメリカの太平洋艦隊、ペリーの率いる四隻の黒船が浦賀沖にきた。江戸が大騒ぎで、一揆鎮圧には来れない、そういう国際情勢をちゃんとつかんで行動した。そして、南部領、現在の岩手県の殿様の悪政のもとではとても生活ができない。ぜひ、今の殿様を替えていただきたいという。「そりゃダメだ」と言われると、「三陸の沿岸を仙台領にしていただけませんか」という。ちゃんと二つの領主の対立関係を手玉にとって一揆衆は要求を出した。

 その要求は四十九カ条。村ごとに年一俵の米の徴収、毎年数度におよぶ理由のない御用金の徴収(消費税のようなもの)、年貢米をお金で出すときに算定基準が不都合、大豆や真綿などを安く強制的に買い上げるなど、窮状の原因を具体的に書き上げ、一条ごとに「百姓共一統、迷惑の事」の言葉で結んでいます。そして、農業だけでなく、漁業、水産加工業、製塩、染織業などのさまざまな生業に従事する人々の要求をとりあげています。

 彼らは粘り強くたたかいました。そうして、ついにすべての要求を実現した上、その証文を書けと要求した。それが「安堵状」です。「御百姓」と書かれています。みなさん、こういうプライドが必要です。ただの百姓ではない、御百姓です。みなさんは、御農民ですよ。全国民の食糧を生産している、御農民さまです。

 「安堵状」には、処分者は一人も出さないと書かれている。不当処分は絶対にしないから、安心して帰村せよという。初めは奉行格の役人が署名したが、そんな下っ端の役人ではダメだという。しまいには南部藩のご家老が呼び出されて署名した。そしてようやく一揆は終結するんです。農民たちは四十九カ条の要求を全部通しました。一人の処分もありませんでした。これが南部三閉伊一揆です。

 このような見事な一揆がどうして実現したのか。それは現代の私たちにとっても胸のすくようなテーマです。

 勤労人民の自覚と誇りが…

 三閉伊一揆の力となった一番大きな要因は「勤労人民としての自覚と誇り」です。

 現在の旧南部領は、宮沢賢治の詩に「寒さの夏はおろおろ歩き」とうたわれているような、冷たい風「やませ」によって、絶えず冷害・凶作に悩まされてきた地域です。たびたびの飢饉におそわれ、餓死した人の肉を食べたり、子どもが産まれてもすぐに殺してしまう「間引き」という、悲しい、つらい歴史をもつ地域です。

 しかし、江戸時代の末期には、日本一の産業地帯になったのです。

 三陸の海岸の断崖の土には、豊富な砂鉄が含まれていた。そこで彼らは、たたら製鉄を行い、その鉄で大きな鍋を作り、海水を煮て塩を作った。獲った魚を塩でつけて干物にした。鉄・塩・海産物を船に積んで江戸まで運ぶ。これが非常に高い値段で売れました。

 この地域の人たちは、困難を克服して築き上げた生産者としての実力、これに大きな誇りを持ちました。一揆を組織するために全領内を歩いた切牛弥五兵衛は村々を巡るときに「百姓は天下の民」「俺たちは殿様の私有物ではない」といったそうです。その誇り、気概、そこから一揆が始まったのです。

 農民連のみなさんは、「俺たちは天下の農民だ」という気概を持たれることが大切だと思います。

 冷害・凶作で餓死者が累々と出たときには、一揆は起こっていません。生活が苦しい、貧しいからだけではたたかいに立ち上がることはできません。人々が立ち上がるのにもっとも必要な力は、人間としての誇りです。生産人民としての自覚、プライドです。それがなければ農民は立ち上がれません。百五十年前の岩手の農民はそれを強く持っていたのです。

 一揆支えた自治と協同の力

 そして、もう一つ。目からうろこがとれるという言葉がありますが、私は三閉伊一揆を勉強し、一番感動したのは「自治と協同の力」です。

 弘化四年の一揆のときに、要求書を執筆して捕らえられ、下北半島の突端まで島流しになった安家村俊作という人物がいます。この人は克明な日記をつけています。その中に「家焼失見舞い覚」という記録があります。俊作の家が火事で焼けたときに、村の人がいろんな見舞い物を持ってきた。材木一本、屋根にふく柾(まさ)、茶碗や衣類、ある農民はドブロクを持ってきてくれた。俊作は、家が一軒建つほどの材木や食料を火事見舞としてもらった。村人たちとのそういう付き合い、協同生活が一揆を支えた一番の大きな要因です。それが非常に深く、温かく、強く、醸成されたときに一揆が起きるという思いがします。

 そして、この地域には念仏講、地蔵講、観音講、庚申講、芸能講、伊勢講、熊野講、金刀毘羅講、学習講など、いろいろな講がありました。

 お互いに積み立て貯金をして順番にクジ引きで伊勢参り、金刀毘羅参り、西国巡礼をした。伊勢神宮にお参りした人たちが泊まった常宿があり、そこには当時の宿帳が残っています。六万人分の名簿がありました。当時、南部領の人口は三十万だったから、五人に一人がお伊勢参りをしていた。その中に一揆の指導者たちの名前が入っています。

 三閉伊一揆の指導者たちの会議を南部領内でやったら危ないでしょう。みんなばらばらに出発して、伊勢神宮に集まってそこで作戦会議をやり、意思決定をしたのではないか。彼らは、伊勢参りの途中、江戸ではどうだ、大坂ではどうだと、各地の状況を詳しく見聞し、記録している。

 佐々木健三会長さんから「わが農民連の一番の誇りは、この集会に全国から経験を結集した資料が集まること」といわれましたが、これは非常に大事なことです。たたかうときには客観的、科学的に敵・味方の力関係を分析して、敵の弱いところを攻撃する。絶対に犠牲を出さないようにする。勝利の展望をもってたたかわなくてはならない。勝ち負けはどっちでもいいではだめですね。

 一揆衆は、緻密に科学的に情勢を分析している。そのために彼らは、常に学習をおこたりませんでした。

以下次号に続く

(新聞「農民」2002.9.16付)
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2002年9月

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