「農民」記事データベース20021007-557-17

農の考古学(20)

稲作の歴史をたどる


畜力による耕作

 稲作経営で牛や馬の畜力が導入されるのはいつごろでしょうか。五、六世紀代には、各地で盛んに水田開発がすすめられます。それを可能にしたのは、新しい農業・土木技術でした。

 滋賀県蒲生町の堂田遺跡からは、六世紀中ごろ〜六世紀後半の四点の木製の馬鍬(うまぐわ)が出土しています。台木の角材はヒノキ製で、長さが百二十三〜百二十七センチメートル、高さ・幅が、いずれも約十センチメートル。この台木に九本〜十一本の歯が差し込まれる構造です。二本の歯が残っており、長さは差込み部分を除いて三十二センチメートルありました。

 馬鍬は、それまでの農具にはみられない畜力を使った農具で、当時では最新の農業技術でした。堂田遺跡の発掘調査報告書(滋賀県教育委員会・一九八九年)は、「乾田を鋤や鍬で耕起した後、代掻に馬鍬を使用したのであろう」とし、代掻きをしたのは、田植えが導入されたからだろうとしています。そして、「こうした先進技術を持った集団の大規模な水田開発との関係が、今後、検討されるべきである」としています。

 古代の稲作農耕では、先進技術を持った集団がいたのでしょうか。

 滋賀大学の小笠原好彦教授は、五三四年(安閑元年)に難波屯倉(なにわのみやけ)が、耕作を行う「郡毎の钁丁」(ぐんごとのくわよぼろ)とともに設けられたという記述が『日本書紀』にあるとし、「钁は牛馬で土を起す大型の鋤を意味し、堂田遺跡出土の馬鍬はそれをさらに細かく砕く農具にあたる」と説明します。そして、钁丁については「馬鍬のほかに、鉄の刃を装着した大型鋤を牛馬に引かせて耕作する最新の農具を利用した農民集団ではないか」といいます。

 六世紀、七世紀代には、稲などの生産物を収納・管理し、耕地の開発・運営を行う屯倉が各地に設けられますが、生産物の増大と物資の流通が行われた時代の背景には、畜力を伴った新しい農業技術の導入があったのです。

(つづく)

(新聞「農民」2002.10.7付)
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2002年10月

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