「農民」記事データベース20021028-560-11

農の考古学(21)

稲作の歴史をたどる


律令時代の田と畠

 七世紀半ばから十世紀ころまで続いた律令国家は、律(刑法)と令(行政法などの法令)によって人民を統治する国家体制でした。律令社会では農民に一定面積の口分田を与える班田収受の制度が生産の基本でした。

 石川県津幡町の加茂遺跡から出土した、古代のお触れ書きの■示札(ぼうじふだ)には、農民に対する八カ条の命令が書かれています。

 (1)田夫(農民)は朝四時から夜八時まで働くこと、(2)好き勝手に魚酒(ごちそう)を食べてはいけない、(3)潅漑施設の管理をしない者は罰する、(4)桑原を持たないで養蚕する百姓を禁制せよ、(5)村に隠れている逃亡者を捜して捕えよ、などです。ヒノキ材で、嘉祥二年(八四九年)の紀年名があります。文字が読めない農民を集めて、下級役人が口頭で命令を伝えたのでしょう。

 桑原や養蚕の文字から、農民の労働が稲作だけではなかったことが分かります。木村茂光・東京学芸大学教授は、律令時代の農業は、畠作や林作(栗や桑、漆など)の比重がかなり大きかったといいます。

 木村氏は、本格的な班田制が始まったとされる天平一年(七二九年)でも、水田とともに陸田(雑穀の栽培地=畠)の給付がされていること、当時の朝廷が農民に大麦、小麦、アワ、ソバなどの栽培を奨励している史料を挙げます。

 また、律令国家の土地制度では、田=水田の規定はありますが、畠についての規定は、ほとんどない、と説明。古代から近世期までは田地が主な支配・収奪の対象で、そのため田地の史料が多く、収奪の割合が小さかった畠地の史料が少ないのだ、といいます。

 「これまでの日本の農業史研究は、水田や稲作だけを対象にし、そこから農業や民衆の実態を理解しようとするものが多かった。しかし、こうした『水田中心史観』からは、当事の農業や農民の実態はとらえられません。古代から近世の農業は畠作、林作をふくめ、もっと多様で豊かなものだったのです」といいます。

(つづく)

(新聞「農民」2002.10.28付)
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2002年10月

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