「農民」記事データベース20040119-619-04

青江早生ミカンの起こり

1903年に広島・豊町大長で栽培


原産は大分・津久見市青江

「青江早生」の名で全国に広まる

 父から生前に「祖父(大道倉吉)が広島県豊町大長(当時は大長村)の人々にミカンの木を植えるように勧めて回った」とたびたび聞かされていました。そこで早生ミカンについて調べてみました。

 普通温州が枝変わり

 柑橘類は、果物の中で最も古い歴史があり、約四千年前から栽培されています。原産地は中国、インドだと思われます。日本にミカンが入ったのは、いまから約七百四十年前、中国からでした。大長村には、室町時代末期のおよそ四百年前に入ってきたかと思います。

 ミカンが郷土の気温、土質に適することを知り、明治二十(一八八七)年以降、桃からミカンに切り替え、本格的な栽培が始まりました。

 明治二十五年頃、大分県津久見市青江(当時は青江村)の川野仲次氏園の普通温州の一枝が変異を起こし(枝変わり)ました。それが早生温州の始まりです。明治三十年十月には、宮崎勝蔵氏園で初めてキコク(カラタチの漢名でミカン科の落葉低木)の台木に接いだミカンが結果。宮崎氏は、この品種の有望性を村内の人に説きましたが、ミカンの研究に耳を傾ける者はおらず、下村衛十郎氏だけが賛成、「早生」と命名しました。

 大長村では明治三十六年三月、果物協進会の秋光伊織会長をはじめ、祖父ら十三人の会員が栽培を決意し、青江村に接穂を求め、接木しました。翌年から「青江早生」と名付けて村内に穂木を広め、三十八年には広島県下一円に移出、全国に普及しました。

 今、私が住んでいる愛媛県菊間町では、大長村から苗木を持ち帰ったことから「大長早生」と呼ばれています。

 全国の8割を占めた

 原産は大分県ではあっても、研究する人がいなかったために発達せず、大長村で広がりました。最盛期には全国の早生ミカンの八割を占めましたが、今ではほとんど作られていません。裂果、日焼け、炭ソ病、青カビ病、緑カビ病などに侵されやすく、しかも熟期が遅く、先祖返りするものが多いのが原因と思われます。

 大正十三年から昭和十五年にかけて、日本産レモンの八割が、この島で生産されていました。

 大正十三年十月には、わが国で初めてアメリカ製の動力選果機が、豊町沖友(当時は久友村沖友)に購入され、昭和三年には同じくわが国で初めて、大長村の加島正人氏がミカンの缶詰製造に成功しました。大正十四年六月には、県立農業試験場大長柑橘分場が設置され、栽培技術の研究や指導、苗木の育成に一歩を進めましたが、昭和十九年に廃止されました。

 昨年3月誕生百年祭

 大長町内会の人たちは昭和五十一年九月、豊町文化センターの玄関横にタテ一・五メートル、ヨコ三・五メートルの「柑魂」の石碑を建立しました。石碑の裏側には、「明敏にして果断なる先覚者、耐え難きを耐え今日を築いた父祖、全人之『柑魂』、吾等父祖の業を継ぐものすべてこの『柑魂』に徹し、以て先人の遺志に応えることを誓うと共に、偉大なる先覚者を景仰し、父祖の労苦を偲び、永しえにその遺徳を伝えんとして『柑魂』の一碑を建立する」と記しています。「柑魂」の文字は当時、広島県知事の宮澤弘さんが書いたもの。青江早生誕生百年祭が、平成十五年三月二十二日に豊町大長で行われています。

 *参考文献=『豊町郷土産業読本』(昭和三十六年八月一日発行・大長小学校長・藤原謙一編集・大長小学校編)、『カンキツ栽培法』(昭和四十一年十一月十五日発行・岩崎籐助著・朝倉書店)
(四国ブロック編集協力員 大道法幸=愛媛・菊間農民組合)

(新聞「農民」2004.1.19付)
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2004年1月

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