「農民」記事データベース20040621-640-19

明治の老農 船津伝次平〈下〉


大もての「農談」全国を巡演

 船津伝次平は明治の三老農の一人です。老農とは、農業に精通し、経験豊かな人のことを言いますが、伝次平は、どんな農民だったのでしょうか。

 研究熱心、27歳で名主

 伝次平の父は、農業のかたわら、農閑期に寺子屋を開いていました。伝次平は幼い頃から、父に学問を教わり、遠くまで出かけて行って著名な人たちから和算(日本の数学)を学びました。

 研究心旺盛な性格で、熱心に農業に取り組んだ伝次平には多くの逸話が残っています。

 赤城山に草刈りに行ったある日、大きな石の周りの草がよく成長しているのを見て、太陽の熱で温められた石が草の発育をよくしたことに気づいたのです。これを農業に応用し、石と石の間にナスの種をまき、「石苗間(いしなえま)」を考案し、全国に広めました。

 安政五年(一八五八年)、伝次平が二十七歳の時、勢多郡原之郷の名主(なぬし)に選ばれました。そして三十六歳の時、再び名主に選ばれ、中通り三十六カ村の大惣代にも命じられました。

 しかし、伝次平は、役職につけば自分の志である農業や和算の研究ができないと思い、何度も断りましたが、許されなかったので、ちょんまげを切って坊主頭にしました。藩主は、「坊主頭を役人にすることはできないので、かつらをつけることを許す」と言い、伝次平は、かつらをつけて仕事をすることになりました。

 政府も認めた実力

 明治に入り、政府は近代国家をめざして次々に改革を行いました。

 明治六年(一八七三年)に太陰暦から太陽暦に変わった時、和算や暦学を学んでいた伝次平は、「太陽暦耕作一覧」を作りました。熊谷県(現在の群馬県・埼玉県)ではこれを印刷して農家に配布しました。

 明治十年から十八年まで勤めた東京駒場農学校を辞職した後、伝次平の実力を惜しんだ政府の人たちから強く勧められ、農商務省の甲部巡回教師になり、ほぼ全国を巡って農業の改良指導に当たりました。従来の手加減、目分量、心覚えの農業ではなく、数理を応用した農業のやり方を指導したのです。

 伝次平の農談はとても評判が良く、全国から引っ張りだこでした。「開墾した後、一番先に何を作ったらいいか」「大豆かすをいつやったらいいか」などの質問に、実地に即した答えを出したので、農民が真剣に聞いたと言います。

 船津伝次平が亡くなってから百余年が過ぎました。群馬県富士見村には、今もご子孫の方が農業を続けています。

(おわり)

(新聞「農民」2004.6.21付)
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2004年6月

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