新聞「農民」
「農民」記事データベース20140915-1133-07

世界遺産の富岡製糸場
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 今年6月、群馬県にある「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界遺産」に、文化遺産として正式登録されました。

 富岡製糸場は官営工場として有名ですが、生糸の大量生産には原料となる良質な繭(まゆ)の増産、つまり近代的な養蚕業や養蚕技術の発展が欠かせませんでした。今回の登録では、その養蚕技術を伝える養蚕農家の旧宅などの遺産も絹産業の発展と一体のものとして世界遺産に認定されたことは、たいへん画期的なことです。

 20世紀初頭には世界最大の生糸輸出国だった日本。しかし、現在稼働している製糸工場は全国でも5カ所(国産繭を使うのは2カ所)、養蚕農家はおよそ500戸に激減しています。日本の養蚕業の隆盛と衰退の歴史をたどると、TPPにも通じる貿易自由化政策が大きな影を落としていました。

生糸の大量生産支えた
養蚕農家の遺構も認定

画像  富岡製糸場は、明治維新直後の1872年(明治5年)、国内産業の振興と貿易による外貨獲得を目的に、明治政府によって官営の模範工場として建設されました。

 明治政府は、当時、大蔵省租税正(そぜいのかみ)を務めていた埼玉県深谷市出身の実業家、渋沢栄一が責任者となって、フランスの器械製糸技術を取り入れた近代的製糸工場を作ることを決定。横浜港のフランス商館で生糸の検査官をしていたフランス人生糸技術者のポール・ブリュナに工場の設立・運営の指導を、同じくフランス人の製図工オーギュスト・バスティアンに設計を、木材やレンガなどの建築資材の調達を深谷市の韮塚直次郎に、初代工場長には渋沢栄一のいとこで、儒学者の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)に依頼し、設立決定からたった2年の建設期間で完成しました。

 富岡市に建設されることになったのは、広い工場用地や製糸に必要な水の確保ができるなどの条件にかなっていたほか、当時すでにこの周辺は養蚕が盛んで、原料の繭が確保できたためでした。

 しかし、工場はできたものの、順調にすべり出したわけではありませんでした。とくに難航したのが工女の募集で、フランス人技術者がワインを飲む様子を見て、「西洋人が生き血を採って飲んでいる」とのうわさが流れて工女が集まらず、初代工場長の尾高惇忠の長女、ゆうが工女第1号として入場したことをきっかけに、全国から工女が集まったというエピソードも残されています。

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選繭作業中の酒井さん夫婦

 全農家の4割が養蚕業に従事

 明治以降、近代的な製糸工場が各地に建設され、同時に近代的養蚕も全国に広がりました。最も養蚕業が盛んだった昭和初期には、日本の農家の約4割にあたる221万戸(2013年は486戸)が養蚕にたずさわり、桑園面積は全国の畑地の約4分の1に達していたといいます。現在(2010年)の総農家数が253万戸ですから、往時の養蚕の隆盛がしのばれます。

 生産された生糸や絹織物は輸出産品として重要な役割を果たし、明治初期から昭和初期には輸出総額の27〜67%を占め、1900年ごろからは中国を抜いて世界最大の生糸輸出国となりました。そして、このように生糸の輸出によって獲得した外貨が、日本の近代化を進め、同時に富国強兵政策を推し進める原資ともなっていったのです。

日本の養蚕業を衰退させた
輸入自由化と市場まかせ政策

 TPPに通じる当時の自由化

 これほどに日本の代表的な地域産業だった養蚕・製糸業が、衰退していったのはなぜか。化学繊維が開発されたことや、「着物を着なくなった」などの消費者ニーズの変化が衰退原因としてあげられていますが、実はそれだけではありませんでした。日本の養蚕の衰退は、政府・自民党による自由化政策のなかで進んだのであり、“圧死”させられたと言っても過言ではない歴史があるのです。

 同時に、繭価格の安定と生糸製品の自由化阻止に全力をあげた、養蚕農家のたたかいがあったことも忘れてはなりません。農民連の前身の一つ、関東農団連(農業と農民生活を守る関東地方農業・農民団体連絡会議)が、1981年に行った政府要請には、「繭価の低迷の原因が、輸入生糸などにあることを無視し、国内生産の縮小により需給のコントロールをしようということは、国内蚕糸業を切り棄(す)てること」と、政府を厳しく糾弾しています。

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酒井さんの自宅に隣接する蚕の飼育場

 しかし、それまで政府の自由化方針の下でもかろうじて繭価の維持に役割を果たしてきた「異状変動防止措置」制度が、1985年5月に廃止され、これがきっかけとなって、1キロ2000円前後だった繭価が1000円前後に暴落。養蚕農家にとって壊滅的打撃となり、現在に至っているというのが、歴史的事実です。いま、安倍政権はTPPに参加しようと躍起になっていますが、現在の養蚕業の困難は、TPPを先取りするかのような輸入自由化と市場まかせの政策が生んだものなのです。

養蚕守れとたたかった
農民連の前身団体

 たたかう女工を支援した渋沢

 富岡製糸場の設立に深くかかわった渋沢栄一は、第一国立銀行をはじめ500もの企業創立にかかわり、「日本資本主義の父」と呼ばれています。一方、身寄りのない老人や子どもを養う養育院や聖路加国際病院の設立にかかわるなど、弱者への支援、救済に心血を注いだことは、意外と知られていません。

 とりわけ、戦前の製糸工場での過酷な労働に、女工たちがストライキを決行してたたかった長野県岡谷地方の労働争議では、渋沢栄一は女工の側に200円もの高額なカンパを送っています。

 細井和喜蔵の名著「女工哀史」や、映画化もされた山本茂実の「あゝ野麦峠」にもあるとおり、当時の民間の製糸工場では、10〜20代の若い女工がタコ部屋のような劣悪な環境の宿舎に寝起きし、低賃金で毎日14〜15時間働くというきわめて過酷な労働環境でした。模範工場として設立された富岡製糸場の労働条件はこれほど劣悪ではなかったと言われており、現在の富岡製糸場の展示物に、そうした説明はいっさいありません。しかし日本の資本主義の勃興を支えた女工たちの苦難の歴史も忘れてはなりません。

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蚕が繭をつくる回転まぶしから外す際に、汚れた繭などがないか、厳しくチェックを行う酒井さん

 若き日に「論語」を学び、「道徳経済同一」論を唱え、当時の経営者たちに「利益は社会に還元しなければならない」と訴えた渋沢栄一は、労働争議に立ち上がった女工たちを支援するという、今の経済人たちには考えられない志のある人でもありました。「企業の利益のためには何をやってもかまわない」という経営者が跋扈(ばっこ)するいま、今回の遺産群に、富岡製糸工場の生みの親である渋沢栄一に関する史跡が一つも登録されなかったのは残念なことです。

(埼玉県農民連 松本慎一)

(新聞「農民」2014.9.15付)