新聞「農民」
「農民」記事データベース20170918-1279-09

私の戦争体験

京都農民連顧問〈投稿〉
平野 力さん(93)
=福知山市在住=


抑留中、飢餓線上をさまよう
やせ細った私の血を吸うシラミ

 京都府の丹波・福知山の農家の長男として生まれた私は「米という字は八十八と書くんじゃ。米ができ上がるのに八十八回人手がかかるのじゃ。米には三宝さん(神様)が宿っておられるので粗末にしてはいかん」とこぼしたご飯を拾って食べさせられたものです。父からは「百姓は『多くの人を生かす』と書く。農業は尊いものじゃ」と教えられました。

 白米は国賊だと弁当食べられず

 戦時中、養蚕の桑畑掘り起し、水田にしたのを覚えています。ひとり2合3勺(しゃく)の配給米と決められ、都会の人たちは大変な不自由をされたと思います。私も東京や大阪で暮らしたことがありますが、寮の食事で腹が満たされないので、行列している食堂の前に並んで食べたことがあります。

 田舎から帰るとき、母が白米だと国賊と言われるので、海苔(のり)で包んだ握り飯を弁当にしてくれました。名古屋付近だと思いますが、弁当を取り出したところ、向こう側に座っていた3〜4歳くらいの子どもがじっと私を見つめているではありませんか。食べるときに海苔からはみ出た白米が出たら国賊と言われるかもしれません。とうとう東京に着くまで食事なしで行きました。

 不眠不休で食料ない死の行軍を

 軍隊に入ると関東軍に配属されました。日ソ開戦で不眠不休の食料もない死の行軍をし、中国の農民が苦労して育てた瓜などを見つけると、もぎ取って食べる浅ましい私でした。

 敗戦後、シベリア抑留の4年間は本当に食べるのに事欠き、飢餓線上をさまよいました。収容所では350グラムの黒パンと、顔が映るほど薄い水のようなスープをはかりで量って分配するような食事でした。そのため、やせ細って骸骨のような体になり、衣服に住み着いたシラミがこのやせ細った体から血を吸うのです。

自給率低下させた安倍農政
戦時中の食糧難忘れたのか

 腹いっぱい食べあの世にと戦友

 ヨロヨロよろけながらついた作業場では高いノルマの重労働。昼食用の黒パンは朝食の時に食べているので、仕方なく自分の体を守る手袋や靴下などを黒パンと交換する人もいました。「一度でよいから腹いっぱい白いご飯を食べてあの世にいきたい」と言って死んでいった戦友もいます。私は幸いにも九死に一生を得て故国に帰ることができました。

 帰国した私は一生懸命農業をして食糧増産をしようと思っていました。国も自治体も農業関係者も食料増産に旗を振りました。死去した父の後を受け、人から動物園かと言われるほど家畜を飼い、山に木を植え、薪を町に売りに行ったりして働きました。後に私の獣医師の技術を生かして畜産関係にも勤務しました。

 日本でも食料自給率が1965年頃には73%となりました。若い私は「農こそ国の宝」とがんばっている矢先に、貿易の自由化。主食はアメリカや外国から買えばよいと言わんばかりでした。

 農協つぶしの農協合併も行われ、農民をバラバラにして今や日本の自給率は38%まで落ち込み、農村では過疎が進み家が、村がつぶれそうになっています。天候、自然相手の農業です。国民の生命の糧である農業をどうするか、みんなが考えなくてはなりません。

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2006年8月9日に長崎を訪問した平野さん

 悪政が続くなら死ぬに死ねない

 米国は130%、ドイツ95%、イギリスでさえ63%の自給率を守っています。日本は戦時中の食糧難のことを忘れてしまったのか。「日本の安全な食料は日本の大地から」と微力ながら尽くしてきた私は、さびれゆく農村、荒廃農地の実情を眺め、こんな政治を続けたままでは死ぬに死ねない思いです。もうすぐ94歳になる老体にムチを打ち、息子や孫たちに「おじいちゃんの目の黒いうちは先祖伝来の田畑、山林を手放してはならん」と言い続けながら農民運動にも参加しています。

(新聞「農民」2017.9.18付)