新聞「農民」
「農民」記事データベース20180430-1309-10

ふるさと
よもやま話

佐賀県農民連会長
古川文一


ひんぱんにあった茶講ばなし
ばあちゃんへのノスタルジー

 私が物心ついた頃は、昭和14、15年頃であったろうか。西暦年号に直すと、1939年、40年頃である。この頃の社会の情勢は、二・二六事件、日華事変、国家総動員法発布、第2次世界大戦の勃発、大政翼賛会発足、紀元二千六百年記念式典など。

 今日からは、想像もできない全体主義的風潮がおう歌されたときである。

 向こう三軒両隣 ばあちゃん「結」

 そのころ、寒村(現武雄市)でありながらも人情の厚い私の部落にも、時代の波が押し寄せ、完全に張りつめた時期でもあった。

 そこでの生活のあり様は、部落のほとんどの家は、藁葺(わらぶ)きであり、裸電球が部屋にポツンとわびしく下がって、座敷の仏壇の灯明だけが異様に明るかったことを覚えている。

 農作業は、親類や向こう三軒両隣の女性の方ばかりが「結」のかたちをとって進められていた。田植えはもちろんのこと、害虫取りなどは朝食前に、竹筒に入れた油を水面に落とし、向こう三軒両隣のばあちゃんたちが、稲の間に一列に並んで手を取り合い、足で水面を蹴って、油の浮いた水面を稲に振りかけるのである。

 私なども子ども心にその田んぼの畔を応援を兼ねて駆け巡った光景を思い出す。

 夕げの後は、毎日が「夕なべ」で、竹の皮で草履をつくるその手さばきの上手であったことも忘れられない。

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佐賀県内で田園風景が最高に美しい嬉野市嬉野町西吉田の棚田

 皆で祥月命日に仏さまを弔う

 このような生業のなかで向こう三軒両隣のばあちゃんたちの唯一の楽しみは、お茶講であった。茶講とは、その家族の人々が祥月命日に集まって、仏さまを弔う行事である。

 ちなみに参加者は、ツネ(元治元年、1864年生まれ、98歳で死去)、ミヤ(明治16年、1883年生まれ、89歳で死去)、カル(明治18年、1885年生まれ、83歳で死去)、キセ(明治24年、1881年生まれ、89歳で死去)、ハマ(大正5年、1916年生まれ、77歳で死去)の5人。

 この茶講は、私の幼少の頃までは、その家族のすべての人の祥月命日ごとに行われていたので、毎月何回も会っていたのである。

 ほめてくれてたばあちゃんたち

 私はその茶講が大好きであった。その理由の第一は、私を4人のばあちゃんたちがいつもほめてくれるのであった。「文(ふみ)ちゃんは感心やなあ、田植えのときなど、文ちゃんは、おいたちに『クマデの通るぐらいに植えんさいのう』と畔から言いよった……」と。

 第二は、茶講ばなしで昔話をたくさん聞くことができたこと。第三は、昼食、夕食はもちろんのこと、入浴なども家族の一員のように私を扱ってくださった。向こう三軒両隣のばあちゃんたちの集まりであったからである。

(新聞「農民」2018.4.30付)
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