新聞「農民」
「農民」記事データベース20180903-1325-09

戦争体験

京都農民連顧問(前会長)
佐々木幸夫さん(85)
=亀岡市在住=


2人の兄を戦争で亡くして

 私の生まれた土地は、北摂連山ふもとの急傾斜地で、山の頂上が大阪府と境になっています。そんなことから辺地対策事業は当初から適用されています。

 農業を2人の妹と

 私は昭和8年生まれで85歳です。幼少の頃から戦争に翻弄されてきました。12歳で両親と別れ、2人の兄のうち長兄は中国で戦死し、復員した次兄は予科練の厳しいシゴキがもとで、ノイローゼになり、妻や子どもを残して自殺しました。21歳でした。

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佐々木さんの戦争体験を報道する新聞各紙

 義姉は実家に帰り、私は義務教育を終えたばかりの15歳で、2人の妹と農家を継いでいくことになりました。米は従来通り収穫できないのに、米の供出は以前の実績で出せということで、夏場には飯米がなくなるという厳しい状態でした。

 農作業はすべて手作業でした。牛を使い、カラ働きで田を起こし、田植えは人頼みで、夏の草取りは遅れがちで、草に負け、それはたいへん困難ななかでの生活でした。

 もちろん生活費もなく、働くにも15歳では仕事のすべもわからず、途方に暮れる毎日でした。幸い母方の叔父に山仕事に連れてもらい、わずかの現金を得ることができました。

日本農業の危機を救おう

 農業委員を37年間

 19歳の年、大水害の山津波で家と納屋が潰れました。しかし先祖から受け継いだ農業は何としても守るのが当然と思い、家を再建しました。

 農民組合から農業委員に立候補を、と言われ、26歳で立候補して5回目で当選しました。それは、小作料金の4倍値上げを地主だけに知らせたことに反発し、農民組合を結成し、みんなの支援で当選しました。

 その後、19期37年間委員を務め、民主化に貢献しました。府道の改修や保育所の建設等、いろんな運動を手がけ、亀岡市議会議員にも当選し、産業常任委員として、政府の減反政策や米の自由化などの反対運動に積極的に取り組みました。

 体力の許す限りは

 特に、国民の反対を押し切ってWTO(世界貿易機関)に加盟してから生産者米価は半値になり、その後は、急速に若者の農業離れが進んでいます。苦労してやったほ場整備田が荒廃農地になる危険が迫っています。

 いま世界の食料生産の85%は家族農業で生産されているといわれており、国連は家族農業を支援するために「家族農業の10年」を設定することになりました。

 現在の食料自給率は38%で、政府は50%をめざすといいながら、なんら手を打っていません。こんな安倍政権は早くやめさせて、国民の食料の安定政策を確立しなければなりません。体力の許す限り、安倍政権打倒のためにがんばりたいと思っています。

(新聞「農民」2018.9.3付)
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