「農民」記事データベース20000306-440-16

雪深い信濃のお母さんたちの

手作り醤油物語

 二月中頃、長野県豊野町は一面雪で真っ白。リンゴの木も、畑もすっぽりと綿帽子をかぶっています。厳しい寒波の雪降りの日は、りんご農家も剪定作業を一休み。コタツにあたりながら今年の計画をじっくりと練る“計画日より”です。山下富江さん(62)、菊池幸子さん(42)たち――北進農民組合のお母さんたちも、今年で三回目を迎えるしょうゆ作りを計画中です。


加工所からわが家に持ちかえって

 しょうゆ作りの仲間は山下さんと菊地さんのほか、今年から参加する二人も加えて七人。豊野町の隣、牟礼村の生活改善グループでつくる「しょうゆの会」(会員数約三十人)に入れてもらい、三年前から始まりました。

 山下さんいわく「小ずくがないと(マメによく働かないと)ダメ」というしょうゆ作りは、四月中旬のもろみの仕込みから始まります。もろみの素は、あらかじめしょうゆ搾り屋さんが長年の経験と技術を生かして、麹と国産大豆を混ぜて作ってくれます。そして牟礼村の加工場でそのもろみの素と塩をよく混ぜ合わせ、各々の家に持ち帰って、日当たりが良く、風通 しがよく、雨が当たらない場所に据えた桶に、水と合わせて、仕込みが終わります。

わが子を育てるように熟成して

 それからの熟成期間は、ちょっと意外です。昔のようにとにかくよくかき混ぜるのではなく、第一回目は十日後に、二回目はその二十日後に、そのあとは一ヵ月に一回、同じ大きさの別 の桶に小さなボールなどで移し変える「天地がえし」して熟成させるのだそうです。でもその間も、雨がかからないように、カビが生えないように、しょっちゅう「目をかけて、心を入れて、我が子のように大切に」熟成させます。

 そして十二月、待望のしょうゆ搾りを迎えます。仕込む時の材料は同じでも、熟成させる間に農家によって出来がまったく違い、良くできたもろみは、水分が蒸発してホロホロの状態になるそうです。それを再び牟礼村の加工場に運び、しょうゆ搾り屋さんの指導のもと、搾ります。お湯を加え、目のつんだ布袋にいれてしょうゆ搾りの船で圧力をかけて搾り、加熱して発酵を止め、出来上がりです。

カギ握るのは「搾り屋」の達人

 しょうゆ作りの鍵を握るのは、しょうゆ搾り屋さんである萩原忠重さんの技術です。九十一歳という高齢にもかかわらず、なお現役。その豊富な経験と知識を生かしてすべての過程でもろみの状態を見極め、対処を決める萩原さんは、「しょうゆの会」では「先生」と呼ばれて尊敬の的です。

 「昔はどの農家でも味カイとしょうゆは手作りしてたのよ。しょうゆ搾り屋さんが、春になると各家々を回ってね、順々にもろみを仕込んで、秋おそくには搾りに来たのよ」と山下さんは言います。この辺りは、昔は西川大豆と呼ばれるおいしい大豆の産地で、どの家でも大豆の加工が盛んな地域でした。ところが戦後、油を搾ったあとの脱脂大豆を使った、添加物たっぷりの市販のしょうゆが出回るにつれて、しょうゆを仕込む農家も減り、萩原さんはこの地域でほとんど最後のしょうゆ搾り屋さんとなってしまったのです。

加工の仲間をもっと増やしたい

 ところが最近になって、「しょうゆの会」の会員が増えるなど、手作りしょうゆがまた見直されつつあると山下さんは言います。萩原さんにも石井賢郎さんという後継者があらわれ、技術が引き継がれようとしています。

 子育て中のお母さんの菊地さんも「安心して食べられるものが欲しい」と去年のしょうゆ作りから参加しています。「私はしょうゆが手作りできるなんて、知らなかったの。でも安全な食べ物は自分で作るのが一番。手をかけても自分で作ったものを家族に食べさせたくて」と菊地さん。「みそもケチャップも手作りしてるけど、しょうゆ作りは大変さも楽しさも格別 」と加工の楽しさを語ります。

 山下さんも「いずれは、原料も自分たちの大豆と小麦で、もろみを作ってもらうことも考えたいね。そうだ、それにはもっと大豆を作らなくっちゃ。それに一人でも多くのしょうゆ作りの仲間も増やしたいね」と菊地さんと次々と湧きだす夢を語り合っていました。

(満川/新聞「農民」2000.3.6付)
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2000年3月

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