「農民」記事データベース20020708-546-11

農の考古学(14)

稲作の歴史をたどる


弥生時代のいくさ

 稲作農耕がひろがった弥生時代は、平和だったのでしょうか。

 中国の史書「魏志倭人伝」によると、三世紀の日本は、「倭国乱れ、相攻伐すること暦年」と戦乱の時代でした。

 考古学の資料も戦争の痕跡を伝えています。佐原真氏(元国立歴史民俗博物館館長)は、弥生時代になると狩猟具の石鏃(矢尻)が大きくなることに注目し、石鏃が人を殺傷する武器に変化したとして、弥生時代に戦争が始まったと主張しました。

 また、佐賀県・吉野ケ里遺跡の甕棺墓から首が切断された人骨が見つかるなど、各地で戦争の痕跡とみられる資料が増えてきました。

 弥生時代には集落のまわりを濠で囲み、外部と区画した環濠(壕)集落が出現します。横浜市域は、全国で最も多くの環濠集落が見つかった地域で、同市の鶴見川・早淵川流域では、十二の環濠集落が確認されています。なかでも大塚遺跡は、初めて全面発掘された環濠集落として有名です。

 岡本勇氏(元港北ニュータウン発掘調査団長)のもとで大塚遺跡の発掘を行った横浜市・埋蔵文化財センターの小宮恒雄氏は、環濠集落の出現を「集団間の緊張状況が生み出したもので、防御(ぼうぎょ)施設だと考えられます」といいます。

 南関東で環濠集落が出現するのは弥生中期後半と後期で、とくに後期の環濠集落跡からは、在地の土器のほかに、高い比率で東海系の土器が出土します。東海地方から人びとが移動してきたことが考えられます。

 「稲作農耕によって食料生産は上昇し、人口も増えました。増加した人口を養うためには新たな耕地の開発・拡大が必要でしたが、鉄器の普及も十分ではなく耕地の拡大は限界がありました。このため人びとは土地を求めて別の地域に移動したのでしょう。この植民活動が集団間の対立と緊張を生み出したのです」と小宮氏は説明します。

 「弥生のいくさ」の要因には、稲作を中心とする農耕社会の発展があったのです。

(つづく)

(新聞「農民」2002.7.8付)
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2002年7月

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