阪神・淡路大震災から10年
癒えぬ傷跡いまなお深く…
真の復興へ力合わせて
神戸で追悼集会
「あの日から十年。震災はまだ終わらない」――。六千四百三十三人の尊い命を奪い、四十数万戸の住宅を破壊した阪神・淡路大震災。あれから十年目を迎えた一月十七日早朝五時四十六分、松平晃さんが吹奏するトランペットの追悼曲が静かに流れるなか、十周年メモリアル「早朝追悼集会」の参加者四百人は、ちょうちんと白菊の花を手に、それぞれの思いをこめ、犠牲者に黙とうをささげました。
“忘れまい、あの日のことを”
万感こめ献花
手がかじかむような冷たい雨。追悼集会が開かれた諏訪山公園の眼下には、神戸市内の明かりがキラキラと光ります。主催者を代表して畦布和隆さん(復興県民会議世話人・兵庫県労連議長)があいさつ。「今でもあの日のことを鮮明に思い出します。みなさんと手をつないで政府の厚い壁を一つ一つ押し返してきた十年でした」と振り返りました。
献花を済ませた人たちが向かう先は、モウモウと湯気の上がる兵庫農民連のテント。十年間欠かさず続けてきた豚汁のサービスです。
十五人の会員が一時間以上かけて三百人分を煮込みました。「とってもおいしい」「身体があったまる」と参加者。
復興県民会議の代表委員で保険医協会名誉理事長の合志至誠さんからは同日、「食料補給の途絶えた病院は混乱のただ中でした。そこへ農民連から米と生鮮食料が無料で提供されたのです。まさに蘇生(そせい)の糧でした。あらためて謝意と敬意をささげます」との言葉が、県連事務所に寄せられました。
こもごも語る「苦闘の十年」
新潟農民連も参加
前日の十六日には、神戸市勤労会館で阪神・淡路大震災十周年メモリアル集会「被災者の十年 いまを語る」が開かれ、全国各地から三百人が参加しました。
長田区でケミカル業を営む戎(えびす)しず子さんは、「震災で工場も自宅も失い、夫も脳こうそくで寝たきりになった。何度も死にたいと思ったが、動けない夫が、必死に生きようとしている姿に目が覚めた。長田にケミカルが帰ってくる日まで、体が続く限りがんばります」と涙ながらに語り、大きな激励の拍手に包まれました。
東灘区で食堂を営む堀内祐司さんは「菓子屋をやっていた父も店の再建をあきらめ、仮設住宅で死んだ。国から補償があれば、もっと長生きできていたかも」と無念そうに語りました。
集会ではまた、新潟県中越地震の被害と取り組みについて新潟県農民連の鈴木亮さんが報告。「全国から寄せられた支援に感謝します。県の調査では、約千五百ヘクタールの農地が、今年の作付が難しいと言われており、農民連も参加して県連絡会(災対連)を立ち上げて、長い目で復興を考えていきます」と述べました。
鈴木さんがさらに「農民連は、スマトラ島沖地震の復旧に尽力しているインドネシアの農民組織にトラックを贈る準備をしています」と語ると、会場から盛大な拍手。集会は最後に、阪神・淡路大震災十年「被災地からのアピール」を採択しました。
(上山興士)
(新聞「農民」2005.1.31付)
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