「農民」記事データベース20050314-675-08

スマトラ大地震・津波

目おおう惨状にめげず懸命に立ち向かう人々の姿を見た…(1/5)

北スマトラ被災地からのリポート 福伝活人

関連/目おおう惨状にめげず懸命に立ち向かう人々の姿を見た…(1/5)
  /                          (2/5)
  /                          (3/5)
  /                          (4/5)
  /                          (5/5)


見渡す限り荒野黒々

塩分の層厚く農地は大打撃

 二月二十、二十一日は私の生涯で忘れられない日になるでしょう。

 私たち一行がバンダ・アチェの空港に着いたのは二十日の午後一時ごろ。緑に囲まれた風景、人々のけん騒、車の激しい往来を見ているかぎり、地震・津波被害はまったく別世界のよう。

 空港を出てKSKBA(アチェ・北スマトラ自然災害人道支援組織連合)がレンタルした車に乗って約三十分、豊かな田園風景が目に飛び込んできました。ちょうどその一角でインドネシア農業大臣を迎え、収穫祭が開かれています。年にほぼ二回収穫される米は、日本の米に比べて細長く、粒の数も少なめ。しかし、広大な水田に囲まれたこの土地の豊かさに驚きました。

 その後、バンダ・アチェ市内にあるPERMATA(アチェ農民組合)の事務所で一行は二班に分かれ被災地に出発。市内の東側を走って行くと、町の中心に近づくにつれ、壊れた建物が目につき始めました。

 私たちの班は、西北に向かって走りつづけます。ちょうど町のほぼ中心に位置する大きなロータリーを過ぎたところで風景が一変しました。

 ヤシの木の幹が語る津波の高さ

 そこは見渡すかぎりの荒野。木や建物の残がいが積み重なり、黒い大地が広がっていました。ヤシの木はなぎ倒され、残っている住居は壁がなかったり、半分崩れていたり、津波のすさまじさを物語ります。「まるで戦災跡のようだ」と塩崎教授。

 「いったいこの大津波からだれが逃げられるだろう」とWFFP(世界漁民会議)のトーマス・コチェリー氏。被災した彼の母国インドでも「これほどの規模ではない」と言います。海岸から六キロの地点まで大津波が襲いました。

 場所によっては、津波の高さが二十〜三十メートルにもなったそうです。まだ立っている背の高いヤシの幹は、海水につかった部分に塩が白く浮かび上がり、がけを見ると、横一直線に草木の緑色と土の茶色が分かれ、津波の高さを示していました。

 最初に気になったのは、塩のにおいに混じる腐ったようなひどいにおい。気温三〇度を超え、非常に蒸し暑く、海から来る風が心地よく感じるはずなのに、なぜか鳥肌が立つほど寒く感じます。

 それから、あちこちにたなびくたくさんのインドネシア国旗と色とりどりの旗。FSPI(インドネシア農民組合連合)のテジョー・プラモノ氏によると、それらは生存者が行方不明の家族に向けた生存のメッセージだそうです。ラジオでは、DJが新たに確認された死亡者の名前を読みあげていました。


 津波とは 津波は、海面から海底までのすべての海水のうねりです。海底の高低で波の高さが変化し、波長が長いことが特徴。海全体が急速な速度で引き、押し寄せてくるように見え、陸地を襲ったあとも長い間水が引きません。

 一八九六年に起きた明治三陸大津波は、津波が「TSUNAMI」として世界共通語になるきっかけになりました。


救援カンパ送り先 郵便総合口座一〇〇三〇-六一六七一七一一「農民連災害対策本部」まで

(新聞「農民」2005.3.14付)
ライン

2005年3月

農民運動全国連合会(略称:農民連)
〒173-0025
東京都板橋区熊野町47-11
社医研センター2階
TEL (03)5966-2224

本サイト掲載の記事、写真等の無断転載を禁じます。
Copyright(c)1998-2005, 農民運動全国連合会