農機具倉庫・鶏舎流され、 
田畑は水没、生活の糧失う
相馬に必ず戻って農民連事務所・ 
復興活動の拠点づくりに奔走したい
人命より原発延命優先の 
東京電力・政府に強い怒り
関連/息子が再び農業に携われるような施策を
 
  
 避難生活つづける
浜通り農産物供給センター代表理事 
三浦 広志さん(51)
 私は、相馬市で3・11重税反対集会に参加し、デモ行進に出ようかという時に地震にあいました。地面は液状化で一面水浸し、道路は地割れして余震のたびにその割れ目が伸び縮みしていました。デモは急きょとりやめとなり、津波は予想していなかったので大急ぎで申告を済ませ、南相馬市の自宅をめざしました。帰路は水没している部分も多く、山越えをして避難所にたどり着きました。
 さいわい家族は全員無事でしたが、60戸の集落のうち、残ったのはわが家を含めて3戸のみ。海から2キロメートルの内陸まで津波にさらわれ、家も風防林も何もなくなり、田んぼは陥没して一面の海となり、ついぞ見たことのない防波堤をわが家から見渡すことができました。わが家も農機具倉庫と鶏舎は流され、田畑は水没し、生産はまったくできない状況です。 
  「ここも危ない」
 小学校に避難して2日目の朝、福島第一原発の事故の情報が避難所に流れてきて、原発から17キロメートルほどの避難所に移りました。ところがその日のうちに「原発が爆発しそうだ。圧力を下げるためにガス抜きをした」という情報を聞き、さらに原発から25キロメートルほど離れた避難所に移動して一夜を明かしました。翌日、「ここも危ない」ということで、さらに移動して相馬市の避難所に避難しました。
 そこは廃校だったので、毛布を敷いてもとても寒く、なかには一人では歩けないのにトイレのない2階にしか居場所がとれない老人もいたりして、高齢者にはとくに厳しい状況でした。家族が亡くなった人も多く、茫(ぼう)然自失の状態だったり、生きる気力を失っている人もたくさんいました。 
 
  
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    津波で海水の湖と化した水田地帯(宮城県東松島市)  | 
   
 
 原発事故は“人災”
 福島第一原発から20キロメートル圏内は避難地域に、30キロメートル圏内は屋内退避に指定されたことで、安否不明者の捜索も、遺体の回収も、家が残っている人が自宅に戻ることもできなくなっています。避難者が約7万人も激増し、周囲の避難所は人であふれかえり、入りきれなくて県外に避難せざるをえない人も増えています。
 地元には原発や原発関連企業で働く人も多く、避難所では炉心のメルトダウンなど、もっと深刻な事態を不安視する声や、人命より原発設備の延命を優先する東京電力と政府への強い怒りの声でいっぱいでした。 
 原発事故は、地震や津波などの「天災」ではなく、「人災」です。「原発の地震・津波対策が弱い」という声がずっとあがっていたのに、安全神話を繰り返すだけで対策を強化しなかった東京電力にも、国策として原発建設を強行してきた政府にも、「怒り」という言葉では納まらない、強い憤りを覚えます。 
  補償をしっかりと
 田畑も鶏舎も、生活の糧をすべて失い、復旧しようにも原発から12キロメートル付近のわが家には、近づくことすらできません。放射能の飛散で、もう戻れない可能性もあります。自然災害への補償もそうですが、原発事故被害への賠償がしっかりされないと、この先とても生活していけません。国にはありとあらゆる施策を尽くして、被災地の、あるいは転出先での農業生産の再開を支援してもらいたい。
 浜通り農民連も相馬市で事務所を再開する準備を進めています。 
 いま、私と妻は4月から東京で就職することになっている長女のアパートで、両親と長男と犬2匹は伊達市のいとこ宅で、避難生活を送っています。ガソリンが手に入り次第、相馬に戻り、復興活動の拠点作りに奔走しようと思っています。全国の仲間のご支援、ご協力をよろしくお願いします。 
 
  
 
宮城県名取市 桜井茂明さん(野菜農家)
 仙台空港のすぐ近くでカブやホウレンソウなどを栽培していました。ダイコンは収穫間近の状態でした。
 地震当日、税金の申請をする矢先でした。大きな揺れが収まり、ほっとする間もなく、「大津波が来る」というラジオ放送を聞きました。急いで、じいちゃん、ばあちゃんを避難させ、私も車で市役所方面へ、できるだけ海岸から遠いところに避難しました。 
 家族が無事だったのは何よりでした。しかし家とハウスは津波ですべて流されてしまいました。畑は海水に沈み、今は磯辺のようになっています。直径30センチほどの木もすべてなぎ倒され、砂漠に水がたまっているような状態です。 
 300人の集落のなかで、いまだ4分の1ほどの行方がわかりません。もうここで農業を営むのは困難でしょう。先が見えず、何から手をつけたらいいのかわかりません。これからは現実を踏まえて生きていかなければなりません。 
 今は仙台市内のアパートで避難生活をしていますが、インスタント食品でなく、新鮮な野菜や果物を口にすると、農業は最高の職業だと改めて思います。 
 できることなら、30代の息子に再び農業をやらせてあげたい。希望する人には、農業に再び携われるような施策を行政に強くお願いしたい。 
         (新聞「農民」2011.4.4付) 
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