史実から消えた謎の軍隊
(下)
13歳で農兵隊に入隊した
千葉県神崎(こうざき)町
臼方(うすかた) 馨(かおる)さん
少年農兵隊――食糧増産に
駆り出された10代の少年たち
青山学院大学名誉教授の雨宮剛さんが、朝鮮から連行されてきた農耕勤務隊について調べているさなか、岐阜県のある男性から「農耕勤務隊ではなく、私たちのことではないか」と連絡がありました。そこから農耕勤務隊とは別の、少年農兵隊という「銃をもたない軍隊」のことを知り、農耕勤務隊と並行して新たな調査が始まりました。
闇に葬られた農兵隊の活動
戦争末期の1944年から45年にかけて、当時14、15歳の少年たちが食糧増産に駆り出され、開墾、開田をはじめ、土木工事などの強制労働に従事しました。これが「少年農兵隊」(甲種食糧増産隊)です。全国で募集、編成され、その数は約12万人といわれています。
終戦後、その記録や文書はほとんど焼却されてしまったため、彼らの活動は闇に葬り去られたままですが、そのなかでも、少年農兵隊として活動したことを鮮明に覚えている体験者もいます。
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少年農兵隊。最後列右が臼方さん |
千葉県神崎町の臼方馨さん(81)=香取農民組合会員=は当時のことをしみじみと振り返ります。臼方さんは45年3月、13歳で農兵隊に入隊。男手の少なくなった国内で食糧増産のために動員されました。満蒙開拓義勇軍の国内版でした。千葉県大隊小見川分遣隊第3中隊第3小隊に所属していました。
厳しい軍事訓練と満蒙義勇軍
中隊長や小隊長ら幹部は、18歳前後の動員学徒で、茨城県の満蒙開拓青少年義勇軍内原(うちはら)訓練所で特訓を受けてきたばかりの若者でした。入隊直後に上官から「お前たちはおれを兄貴と思え」「これからお前たちをびしびし鍛える」と、ば声がとんできました。
宿舎と作業現場との往復の際には、「おれもゆくから君もゆけ、北満州の大平野」などと軍歌を歌いながら行進。作業前は「大和(やまと)ばたらき」という全員による準備体操を強制されるなど、徹底して軍国思想をたたき込まれました。
軍人勅諭も戦陣訓もすべて暗記していた臼方さんは「お国のために、天皇陛下のために」と満蒙義勇軍に応募。しかし小隊長から「お前は行かない方がいい。願書は出さなかった」と告げられ、小隊長をうらみました。
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少年農兵隊の身分証明書 |
戦後わかったことですが、このとき満州に行った同じ小隊の同僚は、敵兵と住民に追いかけられ、鉄砲で全身を蜂の巣のように撃たれて亡くなったといいます。
国内に残った臼方さんですが、厳しい訓練と土地改良の土木工事で毎日空腹に悩まされ、サツマイモを2本盗みました。中隊全員が土間に並ばされ、上官が「盗んだやつは前へ出ろ」と言われ、迷いながらも前に出たところ、体が横に吹き飛んでしまうほどのびんたがとんできました。
若者は2度とだまされないで
8月のある日、空襲で焼夷弾(しょういだん)が降り注ぐなかを逃げまどいました。翌日、焼け野原になった銚子で、焼け落ちた建物の瓦や壁、柱を片付ける焼け跡整理作業にも携わりました。15日に終戦を迎え、46年3月に解散するまで、千葉の下志津(現四街道市)で食糧増産のための開墾作業に従事しました。
「もし満州に行っていたら今のおれはない。戦争で前途ある大勢の若者が命を落とした。若者は2度とだまされないでほしい」。臼方さんは今、地域の人たちと郷土史づくりに取り組む一方で、小学校で戦争体験を語る日々を送っています。
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少年農兵隊についてのさらなる情報提供を求めています。連絡先は、雨宮さん宅(TEL・FAX 042・771・3707)まで。
(おわり)
(新聞「農民」2012.9.3付)
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