「農民」記事データベース20200907-1423-11

私の戦争体験

東京都小金井市在住の「農民」読者
朝倉篤郎さん(92)
(下)


若者200人以上が避難した防空壕で圧死

 そのあとすぐに第2波の焼夷(しょうい)弾による爆撃が始まり、兵舎などが燃える中を、どのように逃げたのか全く思い出せません。気が付いたら、航空隊から国道を隔てた丘の上にある「適正部」と呼ばれていた建物の前に立っていました。

 建物の周囲は静まり返り、人気はありませんでした。中に入ると学校のような長い廊下の先に、白衣を着た兵士が見えました。何気なく最初の引き戸を開け、私は立ちすくみました。教室一面に遺体が数段に重ねておかれていました。すべてが泥や土にまみれ、中には手、足などのない遺体もあり、言葉で言い尽くせない異様さでした。その中を衛生兵が、遺体の認識票を調べ、身元を確認していました。

 外に出ると夕暮れの中、まきが積まれ、遺体を焼く荼毘(だび)の火が燃えているのが見え、その中を航空隊に戻っていきました。

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空襲犠牲者の名前などが記された資料

 私と同じ練習生が残した記録では「B29の空襲を受け、土空(土浦海軍航空隊)殆ど全滅に瀕す。落下弾数総計132発とか。庁舎、第一烹炊(ほうすい)場、格納庫、雄飛館など海岸に面した建物若干を残し、兵舎、病院、講堂などほとんどが消失す」と記されています。この日の戦死者は287人。うち200人以上が飛行予科練習生で、その多くが特攻要員でした。彼らは空襲警報と同時に鹿島神社が祭られた岡に横穴を掘った防空壕へ避難。そこに直撃弾が数発命中し、壕が崩れ圧死していました。私が「適正部」で見た遺体は、土の中から掘り出されたものでした。

 空襲の翌日、私たち生き残りは谷田部町(現つくば市)にあった谷田部海軍航空隊へ転属しました。

出撃前夜の特攻隊員が大騒ぎ
死にゆく若者のせめてもの抵抗か

 忘れられない出来事があります。特攻隊が九州の基地に向かう前夜、突然の騒ぎで目を覚ましました。壮行会でかなり酒を飲んだのであろう特攻隊員が「俺たちは明日出撃で命はもうない。貴様たち練習生をいじめている教官を、徹底してやっつけてやる。それは誰だか名前を言え」と大騒ぎしていました。

 翌朝、彼らは沖縄戦への特攻隊として九州の基地に向かって飛び立ち、私たちは整列して帽子を振って見送りました。彼らは23〜24歳の若者でした。前夜の騒動は自らの意思や希望、思いとは別に、「お国のために」といった言い知れない重圧の中で死に追いやられる若者の、せめてもの抵抗であったかと思います。

 8月15日はこの日も朝から空襲警報、総員退避。11時ころに警報解除でその後司令部前に総員集合がかかりました。「さらにがんばれという話だろう」などと話し合いながら放送を待ちました。

 放送が始まって、雑音まじりの声が聞こえても、何を言っているのかわかりませんでした。放送後に司令から敗戦が告げられましたが、実感がわかず無言で兵舎に戻りました。その夜、総員集合がかかりましたが、終戦で出漁した漁船を敵艦の侵入と誤認していたことが分かりました。この時初めて私たちに、「ああ、戦争は終わった」とホッとした空気が流れたのです。

(おわり)

(新聞「農民」2020.9.7付)
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2020年9月

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