「農民」記事データベース20020610-542-09

農の考古学(11)

稲作の歴史をたどる


空腹と希望の登呂発掘

 世界で初めて古代の水田跡が見つかったのは、静岡市の登呂遺跡からでした。一九四三年、軍需工場建設に伴なう土取り工事の際に、水田畦畔の杭列が木製品、土器とともに出てきたのです。

 登呂遺跡の本格的調査は戦後の四七年から始まりました。食糧難の時代でしたが、全国から多くの研究者や学生、市民が参加し、空腹に耐えて発掘を続けました。

 登呂遺跡からは、弥生時代の集落跡と生産の場である水田跡が見つかりました。長く悲惨な戦争を生きぬいた人びとは、そこに「平和な弥生時代の農村」の姿を見て感動したのです。

 登呂発掘では考古学だけでなく、各分野の研究者が参加し、総合的な調査がすすめられました。登呂発掘を契機として四八年には日本考古学協会が設立されます。

 当時、明治大学の学生だった大塚初重氏(明大名誉教授)は、食料の買出しをして発掘調査を支えました。暑い夏の日、魚市場からスケソウダラを担いで歩いた長い道。シャツは魚の血糊と汗で染まりました。

 「地元の人がシャツを洗濯してくれたり、リヤカーを貸してくれたりしてね。まさに汗と涙と感動の日々でした。戦争から帰ったら東京は焼け野原です。それまでの天皇中心の歴史(皇国史観)や、神話伝説による古代史も崩れ去っていました。そんなときに登呂の発掘があったのです。地中から二千年近く前の集落跡や水田跡が出てくる。感激でした。ここから本当の日本歴史をつくるのだと思いました」

 五〇年までの五次にわたる調査で、登呂遺跡の集落景観は「十二軒の住居と二軒の倉庫をもつ弥生時代後期の農村で、中央水路をもち、杭や矢板で護岸された大区画の水田が広がっていたが、洪水で短期間に廃絶した」と説明されました。

 水田跡は最大で二千三百九十六平方メートル、最小でも六百十平方メートルあったというのです。

(つづく)

(新聞「農民」2002.6.10付)
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2002年6月

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