「農民」記事データベース20020624-544-01

“有事立法農業版”農水省が具体化

戦時中、禁じられた花作り

 太平洋に面した段丘に畑が広がる、ここ千葉県安房郡和田町は、「日本の花の露地栽培発祥の地」(産業課)です。戦争になると、この花の産地が一変します。『和田町史』はこう記しています。「昭和16年12月、太平洋戦争に入ると同時に、全国各府県で花きは制限作物として、食糧に切換えとなりました。千葉、長野の二県は花きを禁止作物として制定したため、これを作る者は非国民といわれ、ほとんど終息しました。このような状況下、種を保存しようとした一農婦がいました……」


「花は心の食べもの…」

千葉県和田町川名武さんを訪ねて

 また花を作れると信じて

 この一農婦は、和田町真浦の川名武さん(73)の母親、りんさんです。田宮虎彦の小説『花』の主人公のモデルにもなりました。

 「母は、スイセンの球根を掘り出し、わざわざ一キロほど離れた杉山に持っていって捨てていました。焼いてしまうには忍びなかったのでしょう」

 終戦後、スイセンは杉山の日陰の中で咲いていました。それを目にした母が「ここへ捨てておいたからなあ」と、うれしそうにつぶやくのを川名さんは耳にします。

 「そこなら人目につかない。それに、球根も生きているにちがいない。また花を作れるようになる。そう信じていたようです」

 川名さんの家は当時、農業のかたわら父親は漁師を、母は冬になると魚の加工場で働いていました。寒い吹きっさらしのところで魚を開く作業で、腰から下は冷え切り、手もかじかんで包丁さえ握れません。

 「ほかに何か仕事はないか」。そう考えて訪ねたのが、花作りの先駆者、間宮七郎平さんでした。

 一瞬にして収入の道断たれ

 しかし、りんさんの実の母でさえ「食われもしないものを植えて、何するんだ」と、畑を貸そうとしません。近所の人も「あんなものを畑に植えて」と、笑いものにしたそうです。

 ところが、畑の隅に植えたキンセンカが、売れました。「魚の開き」作業より、収入はよかった、といいます。

 花作りはたちまち広がり、新しい駅も開業して、大正十二年には三十一人で和田浦生花組合を結成するまでになります。出荷最盛期には臨時貨物列車も走り、通常でも普通列車に花き専用貨車が連結されるほどでした。

 和田町の畑という畑は、花で埋められました。校長の月給が百円という時代で、年間の売り上げは一軒当たり四千円くらいになっていました。それが、「食用でない」からと、普通作畑に転換させられたのです。花作り農民は、一瞬にして現金収入の道を断たれました。

 「私は子どものころから花の中で育ってきました。いまでいう小学校を卒業してからは、畑を手伝いながら農学校に通っていました。花き栽培の教科書も買ったのに、食糧増産の役に立たないからと、その授業は一日もありませんでした」と、川名さん。

 生きている人の心癒す花

 戦後、花の出荷を再開して、花が売れることを不思議に思った川名さんは、知り合いの市場の社長に聞きました。

 「食糧難で食うや食わずの人がいるのに、だれが買うのか」。答はこうでした。「戦没者の遺族が、慰霊祭に使うのだよ。それと、大地主が楽しみに買うようだね」。

 戦争準備のための法律を作り、不測の事態が起これば花の栽培さえ昔のように禁止しようという小泉政府の動きに、川名さんは思わずにはおれません。

 「人が人を殺しあうことは二度とあってはならない。私らが精《込めて作った花が、戦没者の慰霊のために使われることほど悲しいことはない。花は、生きている人の心を和ませ、癒すためのものだから」

 花は、平和な世の中でこそ栽培できる。戦争なんかで二度と花作りを禁止されてたまるものか。そんな実体験を胸に、出荷用の段ボールには母の思いも込めて、川名さんはこう印刷しています。

 「花は心の食べものです」

(新聞「農民」2002.6.24付)
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2002年6月

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