「農民」記事データベース20020624-544-13

農の考古学(12)

稲作の歴史をたどる


半世紀ぶりの登呂発掘

 登呂遺跡で見つかった水田跡は、最大で約二千四百平方メートル(七百二十六坪)もありました。このため長い間、弥生時代の水田は大区画だったのだ、と思われてきました。

 大区画の水田では田にに水を張る場合、高度の水管理技術が必要です。ところが、その後、見つかった古墳時代の水田跡は三平方メートル前後の小区画水田でした。古墳時代より農業技術が低かった弥生時代の水田が大区画だということは考え難いことです。登呂の大区画の水田には小畔や手畔が設けられ、何十にも区画されていたはずだという意見が出ていました。

 一九九三年、登呂遺跡では発見五十周年を機に遺跡の再整備事業が始まります。九七年には戦後の登呂発掘から半世紀ぶりに集落と水田域をふくむ発掘調査が行われ、小畔で区画された小区画水田跡が確認されました。

 戦後の登呂発掘に参加した大塚初重氏(明治大学名誉教授)は、「当時の発掘は泥水との格闘でした。排水機などありません。だから小畔に気付かず掘りとばしてしまったのです」と語ります。

 半世紀ぶりの登呂発掘では、数々の発見がありました。住居数は最低でも三軒増え、十五軒以上になり、今後、さらに増える可能性があるといいます。登呂集落の継続期間については、これまで洪水のため短期間に廃絶した、と説明されていましたが、集落は弥生時代後期前半を通じて継続し、洪水後も新しい住居が建てられていたことが分かりました。

 「登呂遺跡はすごい情報を持った遺跡です。ここからは、弥生時代の人びとが困難な条件のなかで米作りを続けたことを知ることができます。この遺跡が守れたのは戦後の発掘があったからです。食料も機材も足りないなかで情熱だけを支えに発掘をされた大塚先生たち先輩に学ぶことはいっぱいあります」。登呂の発掘を続ける静岡市教育委員会の岡村渉さんの言葉です。

(つづく)

(新聞「農民」2002.6.24付)
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2002年6月

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