「農民」記事データベース20020923-555-09

農の考古学(19)

稲作の歴史をたどる


木簡で分かった古代稲の品種

 古代の人は、どんな稲を作っていたのでしょうか。その謎を解いたのが木簡の文字でした。

 木簡は文字を書くために、木や竹を短冊状に削ったもの。平城京跡、長岡京跡や、各地の奈良・平安期の遺跡から数万点が出土しています。文字は、告知札、租税の付札、出納、人事記録、借金の請求書、作物の品目や数量など様々です。

 この木簡に古代稲の品種名が書かれていたのですが、文字の意味は長く不明でした。

 その解読に取り組んだのが平川南氏(国立歴史民俗博物館副館長)でした。一九九一年、平川さんは、金沢市の上荒屋遺跡の木簡群に「大根子種籾一石一斗」など種籾の付札と思われる数点の木簡があるのを発見。全国各地の木簡の中に稲の品種名があるのではないか、と調べ始めました。

 山形県遊佐町の上高田遺跡の木簡には「畔越」(あぜこし)とありました。福島県会津若松市の矢玉遺跡からは、「足張」(すくはり)「白和世」(しろわせ)などと書かれた四点が出土。同県いわき市の荒田目条里遺跡からは、「地蔵子」(ちくらこ)「古僧子」(こほうし)など四点が見つかりました。

 しかし、文字の意味はなかなか解けません。研究に疲れた平川さんは、ある日、江戸時代初期に成立した伊予国(愛媛県)の農書『清良記』に目を通して驚きました。そこには、上高田遺跡や矢玉遺跡の木簡の「畔越」「足張」「荒木」と同じ稲の品種名があったのです。九世紀ころの稲の品種が、近世の農村でも作られていたのです。明らかになった品種名は、約二十点になります。

 「千二百年前の律令社会で多くの品種の稲が作られたのは、労働力を分散して効率的な農作業をするためでした。当時から稲は国家の厳格な管理下にあり、農民は厳重に管理・支配されていました。稲は古代国家を支える生産物であり、物品貨幣でもありました。支配者がその稲を、税制を通して回収するシステムが確立していたのです」といいます。

(つづく)

(新聞「農民」2002.9.23付)
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2002年9月

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