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農地の46%を強制買収された農民 連合艦隊の火薬廠建設 舞鶴市朝来谷 戦争体験語る(2025年08月04日 第1661号)

京都農民連 関本長三郎

200年来の河川改修の苦労を完全に無視した旧海軍

切実な要求や異論出すと「非国民的態度」と怒鳴る

買収の押印拒否で三日三晩締め上げ

戦争展で説明する関本さん

 1921年に瀬替えした京都府の朝来(あせく)川(耕地整理も含む)は、当時の二級河川改修費が半額地元負担であったので20年返済で着工し、完済したのは、1939年8月であった。舞鶴市朝来地域は、慶長年間から田辺藩の中では優秀な石高で、今も「郡内、屈指の米作農村」(昭和14年)と記録がある。
 河川改修は、200年来の課題であった。海軍の話は、「この苦労」を完全に無視したものだ。いくら戦争のためだと、連合艦隊に搭載する火砲の爆薬を自前で充足する「火薬廠(しょう)」を全国に3カ所設置。機雷、爆雷、砲弾のさく薬を製造する工場をここにつくるのか……と唇をかんだ。
 そういわれても「私らの20年の苦労はどうなる?」。住民には反論できない世情があった。つまり満州事変後、日中全面戦争中、舞鶴鎮守府が復活した2日後である。開戦の2年前、第二造兵部、第二海兵団、工廠見習工員と学徒の宿舎等建設目白押しの最中であった時だ。「第三火薬廠」は1940年に工事開始、朝鮮人を使い1年で稲穂の田を黄色い土砂が埋め尽くした。

家具、農具の移転のこと

東山防空地下指揮所

 移転は、家具、農具等一切、すべて自己責任。
 新築しようにも建材が調達できないので解体して大八車で運ぶが期限は1年間。それでも運べない。赤ちゃんの墓、掘り返せばまだ赤い晴れ着が残っている。転居した新しい家の荒壁から粉雪が吹き込み、布団の上に舞う。
 「買収補償金」の半分は国債で自由にならず、戦後は紙くず同然になった。

最初の買収説明会

 工事費の完済4カ月後、朝来村議会に突然、海軍将校が来て通告した内容は、「1年以内(その後の猶予期間は4カ月)に家屋敷、田畑神社仏閣、墓まで一切を撤去せよ」である。
 直ちに「説明会」を開始、宅地…畑……山林…。50銭をせめて55銭にしてもらえないか?と申し出ると「非国民的態度」と怒鳴る。横の部長と相談して「3銭買い増しする。海軍の血の涙と思え」と、まるで「田舎芝居」だ。

「困ったことはなんでも言え」

火薬が砲弾、機銃に充てんできているかどうかを検査する鋳造成形検査場

 買収は、朝来村の住居26%を転居させ、地域の46%を占め、他に例がない。直ちに開催された「養源寺」での説明会は廃村にする長内、白屋、岡安の3カ村から人が集まった。長内住民の記録が残されている。「朝来村は、完全農家である。こんなことになれば、皆失業する…といったら軍は失業者は皆、軍が雇用してやろう」と、誠にありがたい言葉も聞いたが何もかも終戦で水の泡になってしまった。
 説明中、少しでも異論を出すと「貴様、日本が負けてもよいのか、非国民的態度」とどう喝する。そこまで言われれば誰でも、ちゅうちょする。さらに軍は「軍の命令は、朕の命令」と継ぎ足せば、誰も抗えない。

買収の「新手」、和田地区説明会のこと

 買収の和田説明会で軍の説明に思わぬ抵抗で、「もたついた」のは、参加者の中に復員兵の方がいたからだ。意見する住民に業を煮やして思わず発した言葉「土地収用法」、これで決着させようとする軍の思惑だったが、反発する住民側と3回も決裂した。極めつけが初回提示金額以下、怒りの収まらない軍は、青森市の空襲避難の市民対策をまね、「米穀通帳」取り上げを報道。その夜の大空襲で千人の犠牲者を出した方法を逆手に利用する手段で、こんな軍隊がいた。
 この和田地区に匹敵する農民の抵抗がある。
 朝来村議会議長の抵抗も劇的だ。買収の押印を拒否していた議長を憲兵隊が連行して三日三晩締め上げ、その後、朝来川橋詰めに車から放りだした。それ以後、埋め立て工事が一気に進んだ。詳細を語ることはないが、気骨あふれること、聞かずともわかる。

おわりに

 なお、私の家はこの火薬廠のそばにあった。
 買収もされ、ぼう洋とした荒廃の地を眺め育った。今では、「戦争・空襲」を永遠のテーマにしている。


 関本長三郎 1943年生まれ、81歳。京都府舞鶴市在住
 ・戦争・空襲メッセージ編さん委員会代表
 ・元舞鶴民商事務局長
 ・元舞鶴市農業委員(5期)